隙あらざれども自分語り

こんなこと書いてる間に読書しろ(自戒)

お受験社会批判

 教育というのが、生徒の人格の完成を目的として働きかける行為だというのは自明であろう。そして国民国家の形成とともに国民教育が国力の向上に不可欠であるということになったというのも近代以降の教育を考えるうえで欠かすことのできない事実である。

 我々が普通選挙に立脚した民主主義の恩恵を受けられるのは公教育が確立されているからである。裏を返せば確立された公教育制度なくして普通選挙はあり得ないのである。しかし、教育機関が国の管轄内に収まらねばならない(文部科学省など)以上、これは行政の一部に取り囲まれる。歴史の中には教育を国策に合致させるよう国家権力が仕向けた例が少なくないのは皆さんご存じだろう。そのような中には生徒の人格完成を補助するといった前近代より存在する教育の本質的理念は失われる。

 とは言え、学校教育は生徒に教養を教授する事を目的とし、それを国家が福祉として全国一律で行うというのが今日の大原則である。しかし、あなたは小学一年生に教養の取得の重要性を訴え、納得させることができるだろうか?私は自信がない。

 そこで国は試験を行い、生徒をランク付けし、ランクの上位から好待遇を受けるようにすることで競争を生み出し、全体の学力を向上させるようにする。国の学力や研究力は国家が国際社会の中で生き残るのに直結するからだ。また全国に大学生は60万人程度いるとされているが、彼ら全員を東京大学に入れるというのは現実的ではない。

 以上が教育、及び試験を設けることへの一般的な解釈といえるだろう。

 では、試験と教育はどちらが先にあるだろうか?

 これは鶏と卵の問題ではないと私は考える。教育が先だ。教育なくして、何を試験で測るというのだろうか?

 しかし今日の日本ではそれが逆の解釈となっている、則ち、試験のために教育するといった本来とは主従関係が真逆に解釈されているように感じられる。

 なぜならば「良い大学に行けば、良い就職先が見つかる」といった処世術にのみ焦点が当たっているからだ。

 もっともこれを嘲笑する気は私にはない。親が子供に成功を望むのは当然であり、良い成績を残した者を企業が採用したがるのは当然である。

 しかし、「良い大学」に入るための受験戦争を突破しようとするために「受験勉強」のみを受験生はすればよいというのは近視すぎるではないだろうか?そもそも教師が教授し、生徒が勉強するのは生徒の人格形成に寄与するためであり、その結果として職を身に着けたり、国力が上がるのはあくまでも偶然の産物とでもいうべき結果論でしかない。

 我々学生はそのことを思い出すべきではなかったか?

 そもそも「(受験)勉強」と「遊び」という二項対立で物事を捉えるのは甚だおかしな話であり、ましてや前者を「善」、後者を「悪」と定義づけ、ましてや子供にそれを吹き込むというのは悪影響にもなりうるだろう。

 漱石の『こころ』に「精神的に向上心のない奴は馬鹿だ」という有名な台詞があるが、賢明な人というのは精神的に向上心を持つ、言い換えれば常に物事を考える人のように思われる。賢人とは常に思考をする人なのだろう。

 勿論、思考をするには最低限の知識は必要で、センター試験とはその思考に必要な知識をどれだけ有しているかというのを図るためにあるように思われる。

 しかし、今日の我々が経験したような大学受験はその勉強を処世術としていかに効率よくそれを突破するかにのみ注目を浴びる。そこには無味乾燥な「勉強」のみが残り、たいして使いこなせる気もしない世界史の年表を覚えさせられる。そして飽くまで処世術として得たその貴重な資産ともいえる知識は木枯らしで散る枯葉の如くすぐに無くなる。これは教育のリソースの無駄遣いといわずにはいられない。

 そして、「受験勉強」以外の勉学を否定されるような世間では学問を志す人は少なくなり、思考さえ停止させられて受験勉強をさせられるのだから、知識だけのある精神的向上心のない薄っぺらい人間が量産されるのは当然の結果だろう。そんな人間たちによって構成された社会は、大学を他人を馬鹿にするような道具としてしかみなさない風潮さえ出てき、挙句の果てには経団連のようなエリートの集まりが「実学」を求めるようになる。某学歴系YouTuberはそのようなお受験社会の象徴なのかもしれない。

(了)