隙あらざれども自分語り

こんなこと書いてる間に読書しろ(自戒)

所感:煙草と「制度の物神化」

 煙草を吸わない人が増えた。

 両大戦が終結し、医療技術が進歩したことにより寿命が高齢化し「多産少死」、そして「小産少死」の時代を迎えた。そこで「煙草の害」というのが顕在化した。というのはみなさんご存じだろう。

 国鉄の新幹線に禁煙車が導入されたのは1976年(昭和56年)のことで、それ以来禁煙車の割合は増え、ついに今年のダイヤ改正で喫煙車が消滅した。このことが指し示すように、いまや喫煙者はマイノリティーと言っても良いかもしれない。

 もっとも副流煙による被害は建造物に巣くうシロアリの様なものであり、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」ことを憲法が定める以上、非喫煙者の健康を守るために国が有効な制度や指導を導入することは致し方ない事である。

 しかし、現実に目を向けてみると、そこには「分煙」の度合いを遥かに超えた国を挙げての「嫌煙」があるのではないか?

 先に挙げた列車の全面禁煙化も然り、相次ぐたばこ増税、喫煙席を設けられる飲食店の厳格化、「喫煙席」から「喫煙ブース」、果てはその撤去への移行など、挙げればキリがない。

 友人に耳を傾けると、「タバコは『キモい』」という意見が多数みられる。過度の飲酒で嘔吐したその口で。傷つけるのは肺か肝臓かの違いしかないのに、どうしてここまでの違いが生まれるのだろうか?

 理由の一つに教育現場での「保健科」などのプロパガンダなどが挙げられるのではないか?保険の教科書のグラビアにヘビースモーカーの真っ黒な肺を載せとけば、生徒の恐怖心を煽るのには十分である。その隣には脂肪肝が載せられていることが大半だが、現に飲酒のページは「程よく」というのが主体であるのに対し、「たばこ」のページは「害」一色だ。

 政府が嫌煙キャンペーンを行うのには①健康保険の支出削減②健康寿命の増進③定年の延長で期待できる労働力の確保、以上3点が主に挙げられるところだろう。もっともより多くの理由が挙げられると思うが。

 つまるところ、一連の嫌煙キャンペーンは政府の緊縮財政に利があるから行われており、「嫌煙権」の確保はその口実の一つに過ぎないというのが正直なところではないか?

 しかし、我々は「労働力」や「患者」である前に一人の人間である。「人間らしさ」というのは朝起床し、8時間労働を行い、夜帰って寝るというものではないはずだ。友人と歓談し、飲酒をし、旅行をし、そして喫煙する・・・・・・ こういう「不合理な」行為、別の言葉で表せば生産活動に全く与しない行為こそが「人間的」な行為であり、「文化的な生活」なのだろう。むしろこの「文化的な生活」を行うために我々は「社会の歯車」に甘んじているわけである。

 つまり余剰価値を生み出す近代的構造(資本主義)はそれを用いる人間の非合理性のために働いているわけである。そこに需要と供給の関係性が生じる。そして、その余剰価値を中間搾取し、構造的合理性のみを残して人間の非合理性を奪う(最も労働者を「効率よく」働かせるための最低限の余剰は「潤滑油」として残すが)行為こそ、マルクスがいた19世紀中葉のイギリス社会だったのではないか?それはヴェーバーの指摘した「プロテスタンティズムの倫理」と無関係ではないはずだ。

 つまるところ、政府の嫌煙キャンペーンは「健康で文化的な生活」を守るための顔を持った、実のところ真逆の、国民に自ら率先して自己疎外を行わせるための運動に過ぎない。私はここで緊縮財政の是非や、この運動がもたらす長期的利害についてはこれ以上論じないが、一人の愛煙予定者として、この政府の一連のキャンペーンをそれなりに分析した次第である。

 丸山真男は『日本の思想』において、「制度をつくる主体から切り離して、完結したものとして論ずる思考様式は、思想や制度を既製品として取り扱う考え方と深く連なっている」と指摘し(岩波新書、1961年、46頁)、「制度の物神化」という側面が近代の日本の思想にあるという事を指摘したが(引用部分とは異なるが、広く国語の授業で最終章の「『である』ことと『する』こと」が扱われ、そこでも指摘されるように)、これは嫌煙運動に関しても言えるはずだ。煙草を「キモい」物として扱うエモーションを分析すること、及びその時代背景を分析することは民主主義を「行使」することの一つだろう。時代に逆行する「反作用」のエネルギーこそが、政治の暴走を防ぐブレーキの役割を果たすプロセスを重視する民主主義の原動力なのだから。

 「金鵄(きんし)上がって15銭 栄えある光30銭 今こそ上がる煙草の値 紀元は二千六百年 嗚呼一億の金は減る」と日中戦争が激化し、専売品である煙草の値が上がったのを国民は「奉祝歌」の替え歌で嘆いたわけだが、現に戦時下では飲酒と喫煙は慎むべきとされた。そのことを鑑みるに「喫煙ファシズム」という言葉はそれが欧米産という事も相まって説得力がある様に思われる。

 

(了)

感動を食う

 感動とは何だろうか?三省堂の『大辞林』によると 

かん どう [0] 【感動】
( 名 ) スル
美しいものやすばらしいことに接して強い印象を受け、心を奪われること。 「深い-を覚える」 「名画に-する」 「 -的な場面」 

 とある。「感動」という語は英語では”move"と訳されるように、この語は「感情ガ動ズ」ことを指す。

 ところで、近年の日本では「感動」が巷にあふれているように思われる。書店の平積みされた本、その電車の中吊り広告、或いはテレビの番宣では強面の芸能人が、そして映画の広告では全米が涙する・・・ 今や「感動」というのは一種の付加価値と化し、消費するモノとなっている。言い換えれば高度資本主義の枠組みに組み込まれている。

 そしてそれを支えているのは需要があるからである。そして広告代理店はその需要をより喚起し、市場を拡大してきた。

 

 インターネットの登場により今やテレビ業界は窮地に瀕している。それに従い、テレビ番組も低予算化が求められるようになった。

 そこで出てきたのが海外からVTRを輸入し、それをひな壇にいる芸能人に感想を問うという番組だ。これは万人受けするのでドル箱であるゴールデンタイムにもうってつけで、かつ低予算であるから一石二鳥なのである。

 そこでよく消費されているのが「感動」だ。難病の子供、生き別れた家族の再会、決死の事故からの生き残り、などである。ハラハラ、ドキドキ、悲哀、歓喜、そして涙する映像は視聴者にとって飽きることなく、巧くCMを挟めばスポンサーにもウケる。

 しかし、そこにあるのはただの消費である。難病の子供に涙しても翌日には忘れ、宗教的救いを求めたり、無常観に浸ったり、どこかの支援団体に募金することもない。ただ哀れな少女を消費しているだけで、若しかしたら彼女に涙する自分を我々は消費してないだろうか?そしてそれで儲けている人間が少なからず存在しているのである。これほど醜悪なことがあろうか?

 この現象はテレビのみならず、出版、音楽、そして日常生活にまで及んでいる。つまり我々は「感動」を三食と同じように消費している。いや、空費している。徒に心を動かし何も生み出さず、しかもその一方で宗教的価値観や慈善を否定するシニカルな日本人のなんと多き事か。これをモラル・ハザードといわずして何になろうか?

 難病の子供をみて宗教的無常観に浸るのは自己の宗教哲学を深める人もいれば、医者を志す人もいるだろう。生き別れた家族を見て歴史や法学に興味を持つ人も多いに違いない。我々が「感動」として消費している個々は実は有益な教訓であるといえるだろう。そこから何を自己ないし社会にもたらすかは個々人に委ねられている。

 つまるところ「感動」は一種の思考停止といえる。日本がこれ以上燃料を空費しないよう私を含めて個々人が思考というエンジンを働かせたい。そのためにはこれから毎日電通を焼こうぜ?

(了)

 

「お前人のこと言えるのかよ」「アホ死ね」などコメントお待ちしてナス!

 

お受験社会批判

 教育というのが、生徒の人格の完成を目的として働きかける行為だというのは自明であろう。そして国民国家の形成とともに国民教育が国力の向上に不可欠であるということになったというのも近代以降の教育を考えるうえで欠かすことのできない事実である。

 我々が普通選挙に立脚した民主主義の恩恵を受けられるのは公教育が確立されているからである。裏を返せば確立された公教育制度なくして普通選挙はあり得ないのである。しかし、教育機関が国の管轄内に収まらねばならない(文部科学省など)以上、これは行政の一部に取り囲まれる。歴史の中には教育を国策に合致させるよう国家権力が仕向けた例が少なくないのは皆さんご存じだろう。そのような中には生徒の人格完成を補助するといった前近代より存在する教育の本質的理念は失われる。

 とは言え、学校教育は生徒に教養を教授する事を目的とし、それを国家が福祉として全国一律で行うというのが今日の大原則である。しかし、あなたは小学一年生に教養の取得の重要性を訴え、納得させることができるだろうか?私は自信がない。

 そこで国は試験を行い、生徒をランク付けし、ランクの上位から好待遇を受けるようにすることで競争を生み出し、全体の学力を向上させるようにする。国の学力や研究力は国家が国際社会の中で生き残るのに直結するからだ。また全国に大学生は60万人程度いるとされているが、彼ら全員を東京大学に入れるというのは現実的ではない。

 以上が教育、及び試験を設けることへの一般的な解釈といえるだろう。

 では、試験と教育はどちらが先にあるだろうか?

 これは鶏と卵の問題ではないと私は考える。教育が先だ。教育なくして、何を試験で測るというのだろうか?

 しかし今日の日本ではそれが逆の解釈となっている、則ち、試験のために教育するといった本来とは主従関係が真逆に解釈されているように感じられる。

 なぜならば「良い大学に行けば、良い就職先が見つかる」といった処世術にのみ焦点が当たっているからだ。

 もっともこれを嘲笑する気は私にはない。親が子供に成功を望むのは当然であり、良い成績を残した者を企業が採用したがるのは当然である。

 しかし、「良い大学」に入るための受験戦争を突破しようとするために「受験勉強」のみを受験生はすればよいというのは近視すぎるではないだろうか?そもそも教師が教授し、生徒が勉強するのは生徒の人格形成に寄与するためであり、その結果として職を身に着けたり、国力が上がるのはあくまでも偶然の産物とでもいうべき結果論でしかない。

 我々学生はそのことを思い出すべきではなかったか?

 そもそも「(受験)勉強」と「遊び」という二項対立で物事を捉えるのは甚だおかしな話であり、ましてや前者を「善」、後者を「悪」と定義づけ、ましてや子供にそれを吹き込むというのは悪影響にもなりうるだろう。

 漱石の『こころ』に「精神的に向上心のない奴は馬鹿だ」という有名な台詞があるが、賢明な人というのは精神的に向上心を持つ、言い換えれば常に物事を考える人のように思われる。賢人とは常に思考をする人なのだろう。

 勿論、思考をするには最低限の知識は必要で、センター試験とはその思考に必要な知識をどれだけ有しているかというのを図るためにあるように思われる。

 しかし、今日の我々が経験したような大学受験はその勉強を処世術としていかに効率よくそれを突破するかにのみ注目を浴びる。そこには無味乾燥な「勉強」のみが残り、たいして使いこなせる気もしない世界史の年表を覚えさせられる。そして飽くまで処世術として得たその貴重な資産ともいえる知識は木枯らしで散る枯葉の如くすぐに無くなる。これは教育のリソースの無駄遣いといわずにはいられない。

 そして、「受験勉強」以外の勉学を否定されるような世間では学問を志す人は少なくなり、思考さえ停止させられて受験勉強をさせられるのだから、知識だけのある精神的向上心のない薄っぺらい人間が量産されるのは当然の結果だろう。そんな人間たちによって構成された社会は、大学を他人を馬鹿にするような道具としてしかみなさない風潮さえ出てき、挙句の果てには経団連のようなエリートの集まりが「実学」を求めるようになる。某学歴系YouTuberはそのようなお受験社会の象徴なのかもしれない。

(了)