隙あらざれども自分語り

こんなこと書いてる間に読書しろ(自戒)

感動を食う

 感動とは何だろうか?三省堂の『大辞林』によると 

かん どう [0] 【感動】
( 名 ) スル
美しいものやすばらしいことに接して強い印象を受け、心を奪われること。 「深い-を覚える」 「名画に-する」 「 -的な場面」 

 とある。「感動」という語は英語では”move"と訳されるように、この語は「感情ガ動ズ」ことを指す。

 ところで、近年の日本では「感動」が巷にあふれているように思われる。書店の平積みされた本、その電車の中吊り広告、或いはテレビの番宣では強面の芸能人が、そして映画の広告では全米が涙する・・・ 今や「感動」というのは一種の付加価値と化し、消費するモノとなっている。言い換えれば高度資本主義の枠組みに組み込まれている。

 そしてそれを支えているのは需要があるからである。そして広告代理店はその需要をより喚起し、市場を拡大してきた。

 

 インターネットの登場により今やテレビ業界は窮地に瀕している。それに従い、テレビ番組も低予算化が求められるようになった。

 そこで出てきたのが海外からVTRを輸入し、それをひな壇にいる芸能人に感想を問うという番組だ。これは万人受けするのでドル箱であるゴールデンタイムにもうってつけで、かつ低予算であるから一石二鳥なのである。

 そこでよく消費されているのが「感動」だ。難病の子供、生き別れた家族の再会、決死の事故からの生き残り、などである。ハラハラ、ドキドキ、悲哀、歓喜、そして涙する映像は視聴者にとって飽きることなく、巧くCMを挟めばスポンサーにもウケる。

 しかし、そこにあるのはただの消費である。難病の子供に涙しても翌日には忘れ、宗教的救いを求めたり、無常観に浸ったり、どこかの支援団体に募金することもない。ただ哀れな少女を消費しているだけで、若しかしたら彼女に涙する自分を我々は消費してないだろうか?そしてそれで儲けている人間が少なからず存在しているのである。これほど醜悪なことがあろうか?

 この現象はテレビのみならず、出版、音楽、そして日常生活にまで及んでいる。つまり我々は「感動」を三食と同じように消費している。いや、空費している。徒に心を動かし何も生み出さず、しかもその一方で宗教的価値観や慈善を否定するシニカルな日本人のなんと多き事か。これをモラル・ハザードといわずして何になろうか?

 難病の子供をみて宗教的無常観に浸るのは自己の宗教哲学を深める人もいれば、医者を志す人もいるだろう。生き別れた家族を見て歴史や法学に興味を持つ人も多いに違いない。我々が「感動」として消費している個々は実は有益な教訓であるといえるだろう。そこから何を自己ないし社会にもたらすかは個々人に委ねられている。

 つまるところ「感動」は一種の思考停止といえる。日本がこれ以上燃料を空費しないよう私を含めて個々人が思考というエンジンを働かせたい。そのためにはこれから毎日電通を焼こうぜ?

(了)

 

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